【仏教の窓】「四食」ー仏教の智慧ー つながり感覚の回復【コラム】

2/16/2018

大井先生からの年賀状
 大井玄先生には、研修会の講師としてご依頼して以来、親しくご指導いただいています。先生はもともと優れた内科医師・医学者として活躍されていましたが、母親の看取りを通じて、当時の延命治療中心の医療のあり方に問題を感じ始めたそうです。その後三十年あまり、終末期医療と認知症老人医療に尽力されて、その分野では日本を代表するベテラン医師です
 今年で83歳。自らも既に老境に入り、ご自身の病気を通して得られた考えや、臨床での献身的な取り組みには本当に頭がさがりますが、私が大井先生に強く惹かれている理由は、そればかりでありません。実は、お坊さん以上に仏教に強い関心を持ち、積極的に学び探求くださっている方なのです。「なるほど、仏教にはまだこんな掘り出し物の宝がたくさんあったのか!」と気づかせていただいております。
 たとえば、今年の先生からの年賀状には次のように書かれていました。
 

 諸縁に生かされ、若い頃想像もしなかった長寿をいただきました。振り返って、まことに幸せな道行きでした。感謝しきれぬ想いです。新年が皆様にとって、健やかな良き一年でありますように祈っております。
 ブッダの四食の教えに臨床医として驚いております。

 

「四食(しじき)」ということ
 「四食の教え」という言葉を聞いて、それが仏教の独特な考え方であって、どんな内容なのかすぐに分かるようなお坊さんはそんなに多くはないでしょう。ましてや、その教えが「臨床医療(苦しむ患者さんを目の前にした現場の医療)」に対して、具体的で大切な意味を持っているということを見出して、理路整然と提唱してくれているお医者さんなどおりません。
 「四食」というのは、読んで字のごとく「四つに分類される食べ物」のことです。私たちは「食べる」といったら、物理的にある食物を口に入れることしか思い起こしませんが、仏教では、それ以外の三種類を摂り込んで、私たちは実際に生きているのだと捉えているのです。私たちは物質的な身体と心(精神活動)のはたらきによって日夜生きているわけですが、仏教では、特に心や意識(深層意識や意味や感触を含む)の問題を中心に多くの注意を払って語られています。それは、仏教の目的が「苦悩から自由になること(与楽抜苦)」だからなのでしょう。
 そんなわけで、残りの三種類の「食」とは、心や意識に関係する食べ物なのです。この三種類の「食」というのは譬喩的表現ですので、大井先生の場合は「生きるための滋養分(接触・意思・記憶)」という言い方をしています。言い換えれば、私たち人間が本当の意味で「よく生きる」ためには、四つのうち三つを占めている心や意識や感覚の栄養分(滋養分)が大切だというのが、仏教的な理解なのでしょう。また、単純に「こころ」とせずに、三種類に分類されているということは、仏教の先駆者たちが、問題解決のためにそうする必要性や理由があって、デリケートに「こころの問題」を取り扱ってきたからではないかと思われます。
 大井先生は臨床医として患者さんに長く関わってきて、普通の意味での医療行為を尽くすことはもちろんのことですが、それだけでは不十分であることを認識されたのだと思います。例えば、終末期の医療現場ではどうでしょうか? 対処できる技術的な医療行為が尽きてしまったら何もないのでしょうか。それは認知症が進んだ患者さんの場合も似ています。医学的に治療するような方法がないところでは、いったいどうしたら良いのだろうか。
 こうした背景の中で「四食」という仏教独特の見方が、大井先生が直面した現場でクローズアップされて来たのではないかと思われます。

 

認知症高齢者と感覚的コミュニケーション
 例えば、大井先生が「ブッダと老耄」というテーマで話された講演会では、認知症についての医学的な最新の知見やデーターを示すのと並行して、「四食」に言及されながら、次のようにひもといて語っておられます。その一部を要約しながら紹介してみましょう。
                           
 ブッダは「自分」というものを非常に細かく観察されました。また、ブッダは生きるためにどういうことが必要であるかを非常によく考えておられます。そして、生きるための滋養分として「①物 ②接触 ③意志 ④記憶(意識/無意識)=四食」という分類をしています。 
           
〈中 略〉
 ところで、私たちは高齢者になりますと認知症になるわけですね。だんだん自分が呆けていくのではないかという思いが強くなっていきます。認知症というのは高齢期の私たちがまさに直面する問題です。
           
〈中 略〉
   私たちは認知症になった時にどういう感じになるのかと非常に心配するわけです。認知症の中心的な感情というのは「不安」です。「不安」というのは何かというと、次に何が起こるのか分からないというような感じです。その時に生ずる非常

 

に不愉快な感覚、これが「不安」です。
  例えば、まったく自分が行ったことのない外国に行きまして、団体から離れて一人だけポツンと外れてしまったような状態です。どうやって元のホテルへ戻ったらよいのか。次に何が起こるのか心配になります。そういうような不安が認知症高齢者の中心的な感情なのです。
 その「不安」というのは何かというと、「つながりの感覚」―私(自分)が何かにつながっているという感覚が失われる時に、一番はっきりと「不安」が出てまいります。少なくとも自分がどこに居て、親しい人と一緒に居て、一緒にご飯を食べて話ができるという感覚があれば、これは「不安」ではないのですね。
 高齢化にともなって「つながりの感覚」は失われて行くのです。認知症の高齢者あるいは、これから亡くなっていく看取られる人のケアの目的というのは「つながりの感覚」を回復させるとことだと言えると思います。「接触」「眼触」「耳触」というのは、私たちが(環境)世界とのつながりを感じるために必要なのです。私たちは常に「接触」「眼触」「耳触」を通じて、はじめて世界とつながっているという感覚を持つのです。

                             
 いかがでしたでしょうか。これは大井先生が示されたほんの一例です。「つながり感覚」の喪失を回復するために、大井先生は「四食」という仏教特有の人間理解を通して、医学ではそれまで注目されていなかった領域のケアを見出されたのだと思います。私たちが「自他共に大切に生きる」ことに向き合おうとした時、仏教には気づきのための豊富なアイデアが蓄えられていることを大井先生は教えてくださっているのです。
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認知症のご家族や重篤な病気をかかえて大変な方々は少なからずいらっしゃるのではないかと思われます。大井先生の著作の中で皆さんにも比較的手に入れやすく読みやすいものをご紹介いたします。
『「痴呆老人」は何を見ているか』新潮新書 
『人間の往生 看取りの医師が考える』新潮新書
『呆けたカントに「理性」はあるか』新潮社
 

●大井玄(おおい・げん/一九三五年生まれ)
 東京大学医学部名誉教授。一九六三年東京大学医学部卒業、一九七七年ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程修了。元国立環境研究所所長。専門は社会医学、一般内科、在宅医療、心療内科、環境医学。臨床医として終末期医療全般に関わる。

 


 

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