• 厳念寺

【仏教の窓】蓮如上人と「おふみさん」【コラム】


 厳念寺では毎月八日に「新念会」というお説教会をしています。最初に「正信偈」を皆さんで唱和したあと、住職がお話します。昨年は以前にNHKで放映された「落語でブッダ/講師:釈徹宗(仏教に関係する落語の一部を紹介して編集した番組)」を見ながら、住職が大切なポイントを取り上げてお話する形をとりました。

 落語は浄土真宗のお説教がルーツだと言われています。番組では、かつての情景を彷彿とさせる各地のお寺の本堂での落語会が紹介されています。落語に不案内な住職も、毎回皆さんと一緒に楽しませていただきました。 ●  さて、今回は「新念会」でどんな感じでお話しているのか。その第六回目を選んで紹介させていただきましょう。落語の演目は「お文さん(古典落語/桂塩鯛)」。テーマは「無 常―なにわ商人文化と浄土真宗」です。  噺の舞台は江戸時代の大阪の船場(難波)。船場は商業の中心地であるとともに、浄土真宗の中興・蓮如上人が活躍して発展した土地柄です。蓮如上人が普通の人たちにも親しみやすく分かりやすく仏教の要点をまとめたものが「御文」または「御文章」と呼ばれる文章です。当時の人たちは、毎日のように「正信偈(しょうしんげ/親鸞聖人作)」と共に、この「御文」を自宅の仏壇の前で読み上げて、生活の一部として仏教に慣れ親しんで来ました。それで親しみを込めて「おふみ〈さん〉」と呼んでいるわけです。  この落語の話はやや複雑です。この「おふみさん」という言葉が、船場の商家の若旦那のお妾さんの名前と同じなので、紛らわしく混乱して、落語の笑いの落としどころとなっています。落語が好きな方ならば、すぐにどんなあらすじだったか思い出したのではないでしょうか? そして、番組の中では「御文」の中でももっとも有名な「白骨の御文」を取り上げて「無常の道理を深く知って、どのように誠実に大切に生き抜くか」が語られています。

蓮如の御文  浄土真宗は鎌倉時代の親鸞聖人が始まりですが、しばらくは浄土宗の中の小さな流れに過ぎませんでした。しかし室町時代になって、蓮如が本願寺第八世になると、その教化が実り、浄土真宗は日本最大の宗派として爆発的に発展しました。その拠点の一つが大阪の町です。今は大阪城になっていますが、実は本願寺の跡地なのです。そのような貢献があったので、蓮如を浄土真宗の中興の祖として大切にし、多くのお寺の本堂内の向かって左側には、蓮如の絵像が掲げられています。  この落語は、大阪の本願寺門前の商人の町・船場(難波)が舞台です。当時の商人はこの門前町に店を構えることが成功の証となっていました。現在でも「御堂筋」というのは大阪の商業の中心です。「御堂」というのは、実は本願寺のことなのです。  浄土真宗の信者を、昔から「門徒」と呼び習わしていますが、門徒たちは習慣として、自分の家の仏間(仏壇安置専用の和室)で「正信偈」と「御文(御文章)」を合わせて毎日のように読んでいました。御文は漢字ばかりのお経とはちがって、分かりやすい情緒ゆたかな手紙のような表現でつづられた日本語です。これを当時としては最新の木版印刷技術を利用して、多くの人たちに教えを伝えるために普及させたことが、浄土真宗が広まった大きな要因になりました。

 また当時、西洋から訪れたキリスト教の神父さんたちを驚かせたのは、一般庶民が字を読み書きできることでした。それは、この「御文」を読む習慣の影響であったとも言われています。

白骨の御文  この御文の中でも特に有名なのが「白骨の御文」です。 浄土真宗のお葬式には、多くの場合、最後の方で朗読されています。 白 骨 の 御 文

 それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。

 されば、いまだ萬歳の人身をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。

 されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。

 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり。されば、人間の儚き事は、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみ参らせて、念仏申すべきものなり。

                                                     あなかしこ、あなかしこ

 この御文を要約すると、人生の「無常観」が次のように語られています。

 振り返って見れば夢・幻のような人生であり、どんなに長く生きても百年に満たない。誰が先にいつ逝くとも、本当は分からない。朝には元気であっても、夕べには思いがけず亡くなることもある(朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり)。  亡くなれば火葬にして夜更けの煙と成り果てて、ただ白骨だけが残るだけです。この世の無常は「あわれ」などという言葉では、とても言い尽くせないことですね。これは(他人事ではありませんよ)若い/老いも関係なく訪れることなのです。  だからこそ、念仏の教えをしっかりと聞いて、あなたの人生の「今」をかけがえなく大切に生きることを自覚してください。

諸行無常という教え  仏教の基本的な教えとして「諸行無常」という言葉があります。すべての物事(諸行)は、原因といろいろな条件(縁)が重なり合い、連鎖することによって起こって来るという原則(道理)から離れることはできません。ですから、事実は自分の思いを超えて、常に変化し続けている(無常)のです。  しかしながら、そういう道理であることを知識の上ではたとえ分かっていても、日頃は忘れたまま、今日のような日があたかもずっとこのまま続いていくかのような感覚で、ついつい過ごしてしまっているのが、私たちの普通のありようではないでしょうか。  しかし「諸行無常」の道理を、ようやく改めて自覚させてくれる御縁が、親しい人・大切な人の死です。お釈迦様の最後の教えは、弟子たちに自らの死を見せることだったとも言われています。日頃より熱心に教えを聞いてきた弟子たちですら、「諸行無常」ということを本当に身にしみて気づくことの難しさがそこにあるのではないでしょうか。  「諸行無常」の教えは、人生は「むなしい」とか「はかない」ということを言う為ではありません。だからこそ、そのような真実に向き合って、「一期一会」という言葉があるように、誠実にその時その時を、自分らしく尽くして大切に生きたいという意欲・自覚を促すためのなのだと思います。 ●  いかがでしたでしょうか。こんな感じの話が厳念寺のお説教会―新念会では行われています。そしてお話しの後は、参加した皆さんと昼食をとりながら、楽しい一時を過ごすことにもなっています。檀家以外の方もたくさんいらしています。思い立ったら、どうぞ気軽においでください。


62回の閲覧