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【仏教の窓】「花眼」ということ【コラム】

 平成最後の新年をいかがお迎えになられたでしょうか? 私は今年の一月で、めでたく(?)「還暦」になりました。年末には同窓会があったのですが「俺たちも還暦だな」などと言いながら、めでたいでもなく、今時は高齢化社会になって、六十歳程度の年齢なんか取り立てて問題になるわけでもなく、何となく他人事のような感覚でした。皆さんにとって「還暦」は、どんなイメージでしょうか。  とは言うものの、「老い」は切実に実感されるようになってまいりました。だいぶ以前から老眼鏡なしには仕事になりません。そんな時、森澄雄という詩人が語っていた不思議な言葉―「花眼(かげん)」に出会いました。

花眼とは  中国には「老眼」のことを「花眼(華眼)」という昔からの言い方があるのだそうです。そのこころは「花の美しさ、やさしさが分かる年齢に達した」ということのようです。私の場合、視力が衰えていることばかりが気になって、なかなかそのような心境には達しておりません。つまり「老眼」になっているだけで「花眼」にはなっていないということです。この場合「花」とは、私たちにとって「本当に大切なこと、かけがえのないこと(意味)」の象徴でしょう。  「見る」ことと「見える」こととは違います。詩人の長田弘さんは「見えてはいるが、誰も見ていないものを見えるようにするのが、詩だ」という言葉を残していますが、私たちは、実は見ているようで、見えていない大切なもの、豊かなことがたくさんあるのではないでしょうか。花が美しく見えるためには、私自身の心のフィルターが点検されて澄んでこないと、あったとしても見えない。仏さんからご覧になれば、私たちは通常、どれだけ「見えていないか」も気づいていない状態です。

今まで見えなかった世界 信国淳という浄土真宗のお坊さんが、かつて「年をとるということは楽しいことですね。今まで見えなかった世界が見えるようになるんです」と言われた言葉は、この「花眼」という言葉の意味に通じているのではないかと思います。「年をとる」ということについて、身体的衰えとか生産性・経済性・効率性等という面でしか見ることができないとしたら、「年をとるということは楽しいことですね」などと到底言えるはずがありませんね。そこでは「苦しみ/不安」が見えてくるだけでしょう。言い換えると、身体的衰えとか生産性・経済性という尺度におおわれて物事を見ていないような私自身の心の眼が苦しみを作っているということです。それにしても、信国師がいう「今まで見えなかった世界」とはどんな世界なのでしょうか。自分の身体的な健康や生活環境が整っているだけでは得ることのできない、私たちが見失っている世界であるような気がします。そのためには「見える」ようになれる智慧(新しい気づき)が与えられてくる必要があるのではないでしょうか。

四住期  ところで、以前に「四住期(しじゅうき)」という、四つの時期に区分したインド人の理想とする人生への考え方を紹介したことがありました。③と④が私たちの発想にはない特徴です。

①学生期(がくしようき):いろいろなことを体験し学ぶ時期  ②家住期(かじゆうき):家庭を築いたり、社会のために仕事に従事する時期  ③林住期(りんじゆうき):仕事や家庭から一時的に離れて、人生の意味をたずねる時期  ④遊行期(ゆぎようき):人生の最後の締めくくりである「死」に向かって帰ってゆく時期。       成長する中で身につけた知識と記憶を少しづつ世間に返してゆく時期

 ①学生期(がくしようき)と②家住期(かじゆうき)までは分かり易いかと思います。①は文字通り学生であったり、社会人になったとしても、いろいろな基礎的な経験を積んで多くを吸収する時期です。②は学習したことや経験を活かして、社会人として仕事に励んだり、家族を養ったりする時期のことでしょう。つまり現代の日本人の生活に当てはめれば、六十歳頃まで会社で働いて引退するまでの時期にあたります。  そして③の「林住期」の「林」とは、仮に「家」が世俗の日常生活・人間関係を営む所であるとすれば、そこから少し離れた場所のイメージとして「林」という言葉を象徴的に用いているわけです。実際にキャンプのように森や林で仙人のような野外生活をするという意味ではありません。つまり、いろいろな雑事や人間のしがらみを最小限にする時間を確保して、それまでの人生とは質のちがった生き方を考え、試みる時期ということでしょう。十年くらい前に小説家・五木寛之さんの『林住期』というエッセーが評判になったことがありましたが、その中で五木さんは次のように述べています。

しかし、人間はなんのために働くのか。それは生きるためである。そして生きるために働くとすれば、生きることが目的で、働くことは手段ではないのか。いま私たちは、そこが逆になっているのではないかと感じることがある。働くことが目的になって、よりよく生きてはいないと、ふと感じることがあるのだ。人間本来の生きかたとはなにか。そのことを考える余裕さえなしに必死で働いている。

 確かに、そんな生き方であった場合、仕事を引退したとたんに、それからの人生は「余生」という言葉があるように、「余分な人生」・「ついでの人生」・「何をしたらよいのか分からない時間」になってしまうのではないでしょうか。平均寿命が八十歳を越えて来ている今、精神的により豊かな実りを感じられる生き方を模索するために、「林住期」とは自分自身の生きる意味を問い直す大事なチャレンジなのだということです。

「花眼」を得るには      「花眼」を得るためには、やはり今までのままでは無理なのでしょう。頭の良し悪し、経験・学習の多少とは関係ありません。むしろ自分の経験や能力への執着や慢心が、新鮮な気づきを障げます。仏教では「戒(かい)・定(じよう)・慧(え)」という三種類の学びが必要だと教えています。「戒」は心身共に生活を整えることに心掛けることです。そして「定」は精神的に安定させることです。具体的には坐禅や瞑想や念仏などによって、日常の乱れた状態が落ち着いて、自己をかえりみれるような時間を持つことです。「慧」は智慧の慧です。仏教で見出されて来たような道理を学べたことが、戒と定によって整えられた心に宿り生活となっていく(智(ち)慧(え)としてはたらいてゆく)と教えています。つまり、今回の話で言えば「花眼」が成就するということでしょう。  日本にあっても「お遍路(へんろ)さん」というのは、「林住期」に通じる内容があるのではないかと思います。四国の霊場をゆっくりと歩き巡る中で(つまり、それまでの日常生活感覚から離れることによって)、自然と自分自身の人生を振り返らされることを通して、新たな何かが与えられてくる、見えてくる、気づかされてくる。そして、それまでとはちがった新しい生き方が始まる。そんな時間が本来の「お遍路さん」であったのではないでしょうか(ですから、時間的に効率よくバスで霊場をいくつも回って、御札だけをたくさんもらって帰って来ても、本当の御利益(ごりやく)(花眼)はないのです)。  彼岸(ひがん)とは「向こう側の(彼方(かなた)の)岸」という意味です。そして彼岸という行事は、「彼(か)の岸(きし)(大切なことへの目覚めの世界)」へ、こちら側の岸(私たちの常識で迷っている世界)から渡るために、仏の智慧(大切な気づきへの手がかり)に耳を傾けてみる期間のようなものではないかと思います。

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