元には戻れない。それなら、自分を変えるしかないよね (檀家の女性・70代)
【変化の時代に思う】
上の言葉は、お墓参りに来た檀家さんの言葉です。
緊急事態が解かれ、感染者も減少傾向にある東京。でも、「以前の日常が戻ってきた!」とまでは楽観視できない気持ちが、誰にもあるのではないでしょうか。
どこまでが「安全ライン」なのかと、手探りで日々を過ごしているような気がします。
こんな時代、どう生きるか。人生のベテランの冒頭の檀家さんが決めたのは、「自分を変える」でした。その歳でどうやって? そう思われるかもしれません。この場合の「変える」とは自身の視点の根拠としているもののことではないでしょうか。
今までできていたことが、思いどおりにならなくなった時、私たちは往々にして、①思いどおりにしようと突き進む、②現状を嘆いたり怒ったりする、③ダメなのは自分なのだと自分を責める、などの行動を取りがちです。この三つの行動にはいずれも共通点があります。変化に目を閉じているということです。過去に可能だったのは、たまたまそれを可能にする条件が整っていたからではないでしょうか。訪日旅行者がもたらした景気もそうでした。永遠に続くかのように感じたけれど、あっさりと消え、大きな打撃を与えました。
仏教では「諸行無常(=この世の一切は変化する)」と説きます。その真理を踏まえた上で、どう生きるかと問いかけます。これは逆に言えば「変化」に気づいたその時、「私」も変化する機会とも捉えられます。その時、これまで見ることのなかった広い世界が開け、壁のように見えていたものも案外、小石だったと気づくかもしれません。
檀家さんの言葉は、生き生きと「無常を生き抜く」宣言にも感じられたことでした。
合掌
【『誰(た)そ彼(かれ)のことば』とは?】
日々の生活の中で出遇う誰かのことばを通し、仏教的な視点を交えつつ深め、味わっていこうという新コラムコーナーです。
「誰そ彼」には元々「あなたは誰ですか?」という意味があるといいます。また、その言葉が転じて「黄昏(たそがれ)」という言葉になったと言われています。黄昏時は、「この世」と「あの世」が交わる時であるとも言われますが、仏教において「あの世」は「気づきの世界(彼岸)」という意味を持ちます。彼岸をたずね、此岸(しがん)「自分の世界、生活」の有り様に気付き、試行錯誤しながら歩むことが仏教の実践とも言えます。これから多くの方々との「ことば」と出遇うことを通し、日々の生活の糧としていけるよう、皆さんとご一緒に耳を傾けて参りたいと思います。
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